「けいおん!」批判に対する反論

Wikipediaで「けいおん!」を調べていたところ、「評価」という項目に相変わらず的外れな見解が紹介されておりゲンナリ。そんなわけで、ここでは「けいおん!」のようないわゆる「萌え4コマ」と言われるジャンルに対する一般的な批判への反論を試みます。また、そのうえで萌え4コマを中心としたキャラクターものの作品をどう楽しみ、どう評価すべきかについて検討します。
ちなみに、「けいおん!」に対する批判がこの記事を書くきっかけになっていますが、事例として主に取り上げる作品は萌え4コマの元祖ともいえる「あずまんが大王」です。なぜかと言えば、「あずまんが大王」は萌え4コマを語る上で典型的によくできている作品だからということと、「けいおん!」の原作を私が読んでいないからということw や、アニメ版が好きすぎて原作に手が出ないという状況なのですw 


Wikipediaの「けいおん!」の記事にある「評価」の項目で見てもわかるとおり、萌え4コマに対する一般的な批判はこんな感じ。


・ストーリー(ドラマ)がない
・4コマの基本である起承転結やオチが重視されていない
・登場人物の成長が描かれない


こうした批判をする人の中には、「物語」というものに対して確固たる見方があるのでしょう。しかし、私から言わせれば「見方が古い」。萌え4コマの面白さは、旧来の「物語」とは違うところにあるわけで、それを旧来の見方で無理やり見ようとするから、上記のような的外れな批判がでてくるのです。てなわけで、上記の批判について一つずつ反論を。


■ストーリー(ドラマ)がない
まず「ストーリー(ドラマ)がない」という点。これは「物語の中心はストーリーにある」という古い見方からきている批判です。しかし、一般的に萌え4コマといわれる作品の中心はストーリーではありません。キャラクターです。萌え4コマにおいて、ストーリーとはキャラクターを魅力的に見せるために存在するもので、思い切って言ってしまえば枝葉末節に過ぎない。この「ストーリーを描くことを目的としない」という点こそが、萌え4コマの持つ革新性で、過去の一般的な物語とは大きく異なる部分です。にもかかわらず、旧来の観点からあくまでストーリーを見ようとするから、ピントのずれた批判になるのです。萌え4コマにおいては、作品の中心となる「キャラクター」を評価してこそ、その作品を評価したと言えるのです。


ただ一方で、萌え4コマを評価する側からも、中心であるはずのキャラクターをどう評価するかについて、観点が示されてこなかったのも事実。この点については、後で自分なりの観点を提案したいと思います。


■4コマの基本である起承転結やオチが重視されていない
次に「4コマの基本である起承転結やオチが重視されていない」という点について。これも「4コマという手法であるからにはオチを描くことが目的でなければならない」という固定観念からくる批判で、的外れなものです。萌え4コマにおいて、4コマという形式を採用する目的はオチにあるのではなく、自由に場面を切り替えられることにあると考えます。


4コマの場合、一つの話が終わった後、次の話を同じ場面としてもよいし、別の場面に切り替えてもよい。例えば、教室で会話をする場面を4コマで描いたあと、次の話(4コマ)では会話の続きを描いてもよいし、いきなり外で体育をするシーンに切り替えてもよい。どちらの場合でも、4コマという手法で描いた場合には不自然ではありません。通常の漫画の手法でコロコロと場面転換した場合、ぶつ切りで読みづらい印象になることを想像してもらえれば、4コマの場面転換の早さがメリットであることを理解してもらえるかと思います。


そして、一つの物語の中で多くの場面を配置できるということは、笑いの面でもキャラクターを描く面利点があります。笑いの面で言えば、笑いどころを多く作れる点、キャラクターの面で言えば、キャラクターの魅力的な側面を多く見せられる点です。おおざっぱに言うと、一つのコメディー作品ではなく、ショートコントを複数集めているという印象でしょうか。もちろんこの手法だとストーリー性は弱くなりますが、萌え4コマの目的はストーリーを描くことにはないことを考えれば、この手法が合理的であることがわかります。


ちなみに「あずまんが大王」をぱらぱらめくってみたところ、3巻の「March-part2」(連載の1回分)では、15本の4コマが掲載されており、その中に五つの場面が描かれていました(体育の授業、英語の授業、休み時間(ちよと智の会話)、休み時間(榊と神楽の会話)、ちよの家)。この話を読むと、多くの場面を描くことで、各キャラクターの魅力的・特徴的な部分がテンポよく示されていることがわかります(大阪の不思議な部分、ゆかり先生の意地悪な部分、智の子供っぽい部分、ちよの負けず嫌いな部分…)。


■登場人物の成長が描かれない
次に「登場人物の成長が描かれない点」という点。これも「物語は成長が描かれなければならない」という、昔ながらも見方からくる批判です。「けいおん!」にせよ「あずまんが大王」にせよ、成長や変化が描かれていないわけではありません。ただ、確かにストーリーを中心とする旧来の物語に比べると劇的な変化が描かれているわけではありません。この変化のなさ(少なさ)も、キャラクターを魅力的に見せるという目的に沿った手法であると考えます。


キャラクターの魅力を示す一つの方法として、キャラクターの「らしさ」を見せるというやり方があります。「けいおん!」でいえば、平沢唯なら「天真爛漫」、秋山澪なら「怖がりで引っ込み思案」など。こういった「らしさ」を何度も見せることでキャラクターの個性を確定していきます。そして、用意されたさまざまな場面の中で、確定された「らしさ」を何度も見せていくことで、キャラクターの魅力(可愛らしさ)が読者に刷り込まれていくのだと考えます。


言うなれば「らしさ」はキャラクターの個性です。個性が失われてしまっては、そのキャラクターの魅力は一貫したものにはなりません。そして、萌え4コマにおいて、「成長」による変化以上に重要な要素は、「らしさ」を常に保つ、いわば「キャラクターの一貫性」にあるのです。「あずまんが大王」を例にとると、「天然ボケ」という個性を持つ大阪が、的確にツッコミをいれるような場面は作られません。ツッコミ役は必ず暦とちよになります。どんな場面でもキャラクターの個性をストイックなまでに守ることで、キャラクターの個性や魅力をブレないものにしているのです。


これは、ギャグを目的としてた従来型の4コマや、ストーリーを中心とした旧来の物語には見られない大きな特徴と言えます。例えばギャグを目的とした従来型の4コマである「コボちゃん」では、早苗がクールなのかおっちょこちょいなのかはっきりしなかったり、耕二にはあまり色がなく、場面に合わせてツッコミに回ったりボケに回ったりします。これは笑いのための必然であるため問題ないわけですが、キャラクターを魅力的に描くことが目的である場合、歓迎されない手法でしょう。そして、「キャラクターの一貫性」を保つことでキャラクターを魅力的に描く萌え4コマの構造においては、作中で劇的な成長を描くことは一貫性を損なう可能性があり、得策ではないと言えます。


私が読んでいて驚いたのが、「あずまんが大王」4巻の165ページにて、卒業を前にした主要キャラクターたちが会話をする場面。大阪が「私はだいぶしっかりしてきた」と言ったことにたいし、暦が「今のは聞き捨てならねーぞ!」とツッコミを入れるのです。高校3年間を描いてきた作品の中で、卒業式を前にして「成長の否定」をネタに使えるのがこの作品の凄さ、従来の作品とは大きく異なるポイントだと私は思います。深読みしすかもしれませんが、あずまきよひこ先生はあえて「成長の否定」をネタとして使ったんじゃないかと思っています。従来の「成長ストーリー」とは違うものを書いているのだという主張だったのではないかと。


ついでに言えば、高校3年間を描いたときに成長が描かれないのではリアリティーがない、という「あずまんが大王」や「けいおん!」に対する批判自体が、あまりにも旧来型の物語に縛られた見解である気がします。現実には、高校3年間で大きく変わる人もいればそうでない人もいる。にもかかわらず、物語に登場するキャラクターは3年間を過ごせば変わらなければならないという考えは、物語に対して固定観念があるからにほかなりません。もちろん、ビルディングスロマンにおいて成長が描かれていないとなれば問題外です。しかし、「あずまんが大王」や「けいおん!」はそういう種類の作品ではない。批判するポイントがずれているのです。



以上、萌え4コマに対する批判が従来型の物語の見方から出てきた偏見である、ということを書いていきました。また、萌え4コマでは評価の中心はストーリー(ドラマ)性ではなく、キャラクターを魅力的に描いているかどうか、という点になると主張してきました。ここでは、キャラクターが魅力的に描かれているかどうかを評価する上で、どのようなポインがあるのかについて、持論を述べたいと思います。


■キャラクターの一貫性
まずは、先の反論の中でも書いてきたとおり「キャラクターの一貫性」が挙げられます。確定されたはずの「らしさ」がブレると、キャラクターの個性は確固としたものにはならず、読者の抱くイメージや期待に反することになります。一貫したキャラクター性を保った上で、キャラクターの「らしさ」を4コマならではの場面転換の早さでテンポよく見せていく。もちろん、「らしさ」を笑いのポイントに使うことでより魅力を引き出していく。これがうまくできている作品は、良い作品であると考えます。


ちなみに、アニメ「けいおん!」において私が大きな欠点であると感じているのは、第1話「廃部」です。この話において、律が「使えないドジっ子」と評しているとおり、唯のキャラクターはおどおどしたドジっ子です。しかし、2話以降の唯の行動を見ると、「天真爛漫」「マイペースで怖いもの知らず」といった印象になるでしょう。例えば、番外編の「ライブハウス!」(テレビでは未放映)では、律や澪がヤンキー風の怖いバンドのお姉さんにおびえているのに対して、唯は何事もなく質問をする場面があります。この場面はいかにも唯らしい天真爛漫さが出ていて大好きなのですが、この唯の性格と「廃部!」での唯とは性格には大きなズレがあります。「高校生活を通じて成長したからだ」という反論もあるかと思いますが、「おどおど」が「怖いもの知らず」に変わるきっかけになるようなストーリーは作中に見当たりません。1話については、「キャラクターの一貫性」という観点から、評価できない話であると考えています。


■キャラクター同士の関係性

次に重要だと考えるのは「キャラクター同士の関係性」です。「ツンデレ」や「天然ボケ」などの記号を付ければキャラクターは可愛く見える、という誤解がありますが、そんな作品は何百何千とあります。その中で、なぜ「あずまんが大王」や「けいおん!」のキャラクターたちが話題になったのか。それはキャラクターが個人で立っているのではなく、主要メンバー内の関係性を複雑に描くことで、キャラクターが多面性を持つからだと考えます。


例えば、「あずまんが大王」の大阪は「天然ボケ」というキャラクターで、悪く言えばよくある「属性」をもったキャラクターと言えるでしょう。しかし、大阪の「天然ボケ」によって引き出される空気は、会話の相手となるキャラクターによって大きく変わってきます。ちよは「困りながらツッコミを入れる」、暦は「激しくツッコミをいれる」、榊は「困る」、神楽は「大阪の言動を信じてしまうなどのバカさを見せる」、そして智は「二人でボケ倒す」。特に大阪と智が会話するシーンでは、ツッコミなしで二人がわけのわからない不思議な会話が繰り広げられるという、独特の雰囲気があります。「あずまんが大王」の完結後、10周年企画として書かれた「補習」(1年生)では、大阪と智が公園でただ亀をひっくり返す、という場面が描かれるのですが、この場面はギャグではなく、二人の醸し出す異様な雰囲気が妙におかしいのです。


このように、一人では「天然ボケ」という「らしさ」だけを持っているキャラクターが、会話するキャラクターの組み合わせによって様々な側面を見せてくれます。前述の「キャラクターの一貫性」を保ちつつ、キャラクター同士の組み合わせによって「らしさ」の範囲内で異なる側面、雰囲気を見せてくれる。関係性の中でキャラクターが多面性を見せることで、よりキャラクターが立体的になり、より魅力的に見えるのです。


アニメ「けいおん!」の第2期では、14話「夏期講習」で律と紬が二人で遊ぶ場面があり、16話「先輩!」では梓と紬が部室で二人きりになるシーンがあります。この組み合わせは作中では珍しい組み合わせで、作品の中でも独特の雰囲気があり楽しいお話でした。14話の律が紬をエスコートして遊びに連れだす場面は、律の「お姉さん」らしい側面が見えますし、紬の「無邪気」さが引き立ちます。16話では、部室で二人きりになったことを意識してして緊張する梓に対して、いつも通りに抜けた可愛らしさを見せる紬と、少し不思議な雰囲気です。そして、紬の「つまみ食い」をきっかけに梓の緊張が解け、二人で笑いあうシーンは、とても幸福で素晴らしいシーンでした。


このように「珍しい組み合わせ」を作中で描くことは、キャラクターをより多面的に見せるうえ、一つの作品の中で様々な雰囲気を醸し出せるという意味で、重要な要素であると考えます。個人的には、「けいおん!」2期の14話、16話のような物語が描かれるのは、キャラクターものという作品の性質上、必然であったと考えています。



以上、「けいおん!」批判への反論と、萌え4コマのようなキャラクター重視の作品を評価する上での視点の提示を試みてみました。「けいおん!」のようなキャラクター重視の作品については、サブカル系の評論では「視聴者・読者層の薄っぺらさに対する批判」がなされるか、または無視される傾向にあり、まともな評論を避けられている印象があります。しかし、「ストーリーもなければ新しさもない」という批評では、数あるキャラクター重視の作品の魅力や、特に「けいおん!」がなぜ突出しているのかという点について1ミリも説明できません。アニメ「けいおん!」を愛する一ファンとして、私はこのお話のどこが優れていて面白いのかを解明したい。そのような想いから、「キャラクターの一貫性」と「キャラクター同士の関係性」という観点を提示してみました。「けいおん!」や「あずまんが大王」を中心とする、物語ではなくキャラクターを重視するという革新的なスタイルの作品群について、何が面白さにつながるのか、今後は真剣な議論がなされることを期待しつつ、この文章を終わりにしたいと思います。