2013年夏アニメ雑感

先週は飲み会にて夏アニメの反省会。良かった作品を3つ上げるというルールで、私は「サーバント×サービス」「恋愛ラボ」「Free!」の3つにしました。ただ、話題としてはやっぱり、ガッチャマンクラウズが一番盛り上がりましたねw


サーバント×サービス」は自分の中で一番でした。「Working!」の高津カリノ先生が原作なので、間違いはないだろうけれど展開は予想できるところがあり、そこそこ楽しめれば程度の期待値だったはず。が、キャラ先行でありながら、複雑な人間関係のコメディーなんかもあり、大満足でした。


特に、千早さんと一宮さんの関係が明らかになる回は爆笑でしたねw 二人の関係性だけでも笑えるのに、面倒なブラコンの妹まで加わってとっちらかっていく感じが最高でした。千早さんがセーラー服を着て説教するシーンは思わず吹き出した!あれはさすがに一宮さんに同情するw


あと、ルーシーの名前を受理した公務員が明らかになる件。キャラにとって驚きだけれど、視聴者にとっては予想どうりの展開なんで、驚きにもギャグにもなりづらいところだと思ったのですよね。そこを、千早さんの「ざまぁ」でエンディングに持っていった構成は完璧でした!


恋愛ラボ」は原作読んでいた立場として、よくあそこまで完璧に作ったなぁと感心。特にギャグテンポがとてもよく、生徒会室で5人が揃ってワイワイやるシーンは全部好きです。また、マキの吹っ切れたバカを赤崎千夏さんが好演していましたねぇ。マキオやらダッキーやらも含めw


ただ、構成上仕方がないとはいえ、終盤はシリアスな雰囲気が続いてしまったのがちょっと残念だったかな。もっとワチャワチャ、楽しい話で終わって欲しかったかも。


「Free!」は、前半で女性向けの「サービスシーン」をギャグ処理で見せることが多く、結果的に男でも見やすい作品になったなぁと思いました。ハルちゃんの脱ぎグセとか、まさかの男性による試着シーンは笑ったw ストーリーに複雑さはないけれど、水泳シーン等の映像も印象的でよかったす。


ラストについては賛否あるらしいけれど、私は素晴らしかったと思っています。反則になることはもちろんわかっていても、実績より大事なものを選んで皆で「バカをやった」ところが、高校生男子らしい青春だったなぁと。来年の大会に向けて…という余韻もあり、いいラストだったぁ。

エピソードとストーリーについて。「たまこま」と「はがない」の感想

■物語の二つの形式 「ストーリー主導型」と「エピソード主導型」

個人的に、物語の形式は二つあると思います。極端な形での分け方ですが、一つは「ストーリー主導型」、もう一つは「エピソード主導型」です。


一番基本的で、皆が「物語」と聞いてイメージするものが「ストーリー主導型」です。これはストーリーが一本の線のように、始まりから結論に向かって一直線に進んでいくという形式。これらの作品では、作中のエピソードの一つ一つは結論に向かうために用意されていて、エピソードは結論に向かうために用意されます。ミステリ作品なんかはこの典型で、「事件の解決」という結論に向けて、推理のための証拠集めがエピソードとして描かれます。


そしてもう一方は、「エピソード主導型」。結論に向かってエピソードを描くのではなく、あくまで一つ一つのエピソードを描くことが目的となる作品群です。一つ一つのエピソードに物語の中での意味は必要なく、ただただ魅力的である(笑える、リアリティーがある、キャラが可愛い…)ことこそが追求されます。


「空気系」「萌え4コマ」などと呼ばれる作品もエピソード主導型の典型です。4コマというフォーマットは多くの場面を描くことに適していますし、また結論に向かわない…ということを読者が納得しやすい、ということもあるのでしょう。ギャグ漫画をのぞいて、やはり通常のフォーマットだと読者は「ストーリー主導型」のような結論を求めてしまう…という傾向はあると思うので。


また、萌え4コマの代表的な作品「あずまんが大王」「けいおん!」が卒業という形で終わったのも、意味のある結論を必要としない「エピソード主導型」ならではだと思います。物語の終わりにあるのは結論ではなく、ただ時間が過ぎ去ったということだけ。それでも卒業式は、今までのいろいろなエピソードが思い出され、また読者にとってもキャラクター達との別れのエピソードとなり、意味などなくても感動があるのです。…「けいおん!」が卒業で終わっていないように見えるのは、大人の事情というものですw


…さて、物語にこの2つの形式があるという私の認識を前提にしたうえで、2013年に放送されたアニメ「たまこまーけっと」と「僕は友達が少ない next」について感想を書きたいと思います。私自身は、アニメでは「エピソード主導型」の作品を好む傾向があって、とくに「あずまんが大王」と「けいおん!」はオールタイムベストというか愛しているというか、好きなシーンに関してはセリフまでソラで言えちゃう気持ち悪さ!そんな「けいおん!」スタッフが制作するという「たまこまーけっと」には、大いに期待をしていました。…が、個人的にはどうしても納得のいかない個所もあったのでした。


■もっとエピソードを大事にしてほしかった「たまこまーけっと

たまこまーけっと (1) [Blu-ray]

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たまこまーけっと」は、「エピソード主導型」の最高峰とも言える「けいおん!」を作ったスタッフが挑む「ストーリー主導型」の作品、という印象を持っていました。「けいおん!」同様に可愛らしい女子高生を中心に描いていますが、異国の王子の存在が序盤で示されるなど、先の展開を意識して作られたシーンがいくつもあります。


とはいえ、そこは「けいおん!」チーム。キャラクター達のなんてことのないエピソードもきちんと描き、たまちゃん、みどちゃん、かんなの3人娘は回を重ねるごとに可愛らしさを増していきます。がちがちにストーリーだけを描くような作品ではなく、寄り道をしながら最終回に向かっていく、ゆる〜い「ストーリー主導型」になっていました。…が、自分の好みなので仕方がないのではありますが、やっぱりストーリーいらねぇなぁ…と思ってしまうシーンが随所にありまして。その中で一番違和感があったのが、最終回前に出てきた、商店街のメダルのポイントを集めているエピソードです。


このエピソード、過去の話でたまちゃんがメダルのポイントを集めている、またはメダルをもらえることを心待ちにしている、という描写がなかった中で、突如出てきます。それも、王子の后に云々、という話で商店街中が盛り上がっているときに、ものすごく唐突に出てくる。このエピソードはもちろん「たまちゃんの商店街に対する愛着」を示すものですが、エピソードが持つ役割が明白なうえに唐突に出てくるので、どうしても浮いてしまうというか、わざとらしく見えてしまいます。このエピソードがなくても、たまちゃんの商店街への愛着は過去のエピソードで表現されているわけで、やっぱり不要だったんじゃないかなと思うのです。


結局、このメダルのエピソードを経て、最終回でたまちゃんの商店街への想いが語られて大団円。いやま、いいのですけれども、ラストに向けて話をまとめるだけのエピソードってのは魅力がないなぁ…、と思ってしまったのでした。特に、ストーリーに縛られずに、魅力的なエピソードをたくさん作ってきた「けいおん!」のチームであるだけに、ストーリーから逆算して作っただけのエピソードを作ってほしくなかった。「結論」へ向かうためのエピソードよりも、3人娘+デラちゃん+商店街、という日常のだらだらした描写のほうが魅力的で、最後までそれを見ていたかった。


■徹底的にエピソードが描かれる「僕は友達が少ない

僕は友達が少ない (MF文庫J)

僕は友達が少ない (MF文庫J)

一方、同じ時期に放送された「僕は友達が少ない next」は、徹底的にエピソードを描く作品でした。この作品、原作であるライトノベル僕は友達が少ない」の構成がとても特殊で、1冊の中で10以上のエピソードが描かれます。言うなれば時系列に描かれるショートコント。連作短編とも異なり、1編に一つの「結論」があるわけではなく、もっと言えば1冊の中に結論めいたものがなくてもいい。まさに、小説媒体で「エピソード主導型」の作品を描くための構成と言っていいでしょう。私自身、この形式で繰り返される漫画的なキャラクター達のドタバタ劇がどんどん面白くなってしまい、7巻まで一気読みしてしまったのでした。


そんな「はがない」(本作の略称)のアニメは2011年に1期が放送されましたが、正直に言えばあまりうまくいかなかったと思っています。主人公と夜空が幼なじみであるという「ラブコメらしい」設定を結論として重視した演出で、ばればれの伏線で見え見えの結論へ至る稚拙な作品…という印象になってしまいました。しかし、2013年に放送された第2期である「はがない next」は、原作者である平坂読がシリーズ構成に入ったことで大きく変わります。それこそ、遊園地に行ってジェットコースターに乗る、妹の友人(?)が家に泊まりにきて大騒ぎする、などの数々のエピソードが本気で描かれます。原作読者としては、まさにこのくだらなくも愉快なエピソードこそを楽しみたかったのだ!と、大いに納得の内容でした。


またこの作品、エピソードの積み重ねによって、主人公の所属する隣人部の面々の「友達になってしまっている感」がうまく表現されている作品だとも思うのです。2期のラストのメタフィクション的な結論は、無駄なエピソードを積み重ねがなければ説得力を持たないでしょう。ストーリーの緻密さやリアリティーではなく、漫画的なエピソードの積み重ねによって、独特の説得力を持たせた、不思議で面白い作品だなぁと思うのです。


■エピソードはストーリーのおまけじゃない!

いろいろと書いてきましたが、結論としましては、ストーリー上の役割を持つだけのエピソードってのは魅力的じゃない、ということに尽きるのです。せっかく設定も序盤のエピソードも楽しいのに、話をたたみにいく段階で急に魅力がなくなった…と感じたことがあるのは、私だけではないと思います。一時期のライトノベル作品にはこのパターンが多く、話をたたむためだけの取って付けたような「いいお話」でゲンナリする…ということが何度もありました。これらは、「物語=ストーリー主導型」という認識ゆえに、無理に結論を付けようとして、結論へ向かうためだけのつまらないエピソードを描くから発生する悲劇だと思うのです。


しかし、「萌え4コマ」というフォーマットに続き、平坂読氏が大胆なフォーマットの小説を成功させたことで、最近は徐々に状況が変わってきていると思います。「4コマ小説」を売りにする「GJ部」というライトノベルもあるみたいですしね。ストーリーに縛られない「エピソード主導型」だからこそ描ける、魅力的な笑い、キャラクター、エピソード…というものを、もっともっと見ていければなぁと思います。

日本を代表するSF作品になるであろう、「天冥の標」のススメ

現在、間違いなく国内SF界を代表することになるであろう壮大なシリーズ作品が刊行中であることをご存じでしょうか?SFファンなら当然知っていることと思いますが、もしかしたら一般的にはあまり知られていないかもしれない…。SFファン以外の方々にもぜひ読んでいただきたい!ということで、ここでご紹介させていただきたいと思います。


作品名は「天冥の標」。著者は小川一水。全10巻が予定されており、現在は6巻までが出版されています。…全10巻といいながら、1巻からPart1、Part2の2本立てで、6巻に至ってはPart3まであるw 現状、6巻が終わった段階で9冊でている状況です…。が、今から1巻を読み始めればまだまだ追いつけるはず!というか、全10巻出てからだと冊数多すぎて手を出しにくくなりそうなんで、手を出すなら今のうちかも。


さてこのシリーズ、1〜5巻まで各巻によってかなりバラエティーに富んだ内容になっています。ジャンプノベルからデビューし、硬軟交えてさまざまなSF作品を書いてきた小川一水さんの集大成的なシリーズと言えるでしょう。それぞれどんな話かと言いますと…。

・1巻:
遠未来のファンタジー感あふれる世界を舞台にした、圧政に対する革命運動の一部始終。


・2巻:
一転して、現代の地球で猛威をふるう疫病のお話。病原菌の封じ込めに取り組む医師と、病気に侵された少女の物語。


・3巻:
またまた一転して、太陽系宇宙を舞台にした海賊討伐のお話。


・4巻:
宇宙娼館を舞台に、性行為の究極の形である「マージ」を目指すお話。青年と「性愛を持って奉仕する」ものによる官能(!)小説。


・5巻:
地球外の惑星における農家のお話。農業に賭ける父と、都会に出たい娘のお話。この巻の半分が「断章」。


どれも1つの巻だけでも独立して楽しめる内容になっており、特に2巻はエンタメ小説として純粋に楽しめる作品です。罹患者で隔離される存在となった少女の様々な心の動きと、その少女を助けながらも、病気の封じ込めのために現実的な手段を講じざるを得ない医師の悲痛。また、罹患者に対する社会の反応という現実もあり、なんともいえないやるせなさを感じさせます。


…が、こうしたミクロなエピソードの背景には、気が遠くなるほどに遠大な物語が用意されています。そんな背景の大部分が明らかになるのが、5巻の半分を占める「断章」。いわゆる「生物」とは異なる生命体「ノルルスカイン」の誕生から始まるお話です。このエピソードの面白さといったら!


お話の規模は、太陽系とか銀河系などといったレベルではなく、まさに全宇宙規模で、時間の経過も億年単位が当たり前。とある惑星でノルルスカインの意識が発生し、それが知識を得て拡散していくまでのお話に知的好奇心を揺さぶられます。もし我々が神と呼ぶ、人類を俯瞰する存在がいると仮定した場合、それはノルルスカインのような発生の仕方をするのかもしれない…と想像してしまいました。ある意味では、神(のような存在)をSF的な視点から仮定したらこうなる、という思考実験といるかもしれません。とにかく、それくらいとんでもない規模のお話なのです。


また、同じ断章にて、「覇権戦略」に基づいて拡散していくとある種族のお話が展開されます。覇権戦略とは、ある種族が全宇宙に拡散して覇権を征するための戦略で、作品内ではワープ航法などの超光速の移動手段がないことが前提となっています。キーワードは「生命の短さ」。一つの個体が生きる年数が100年程度だとした場合に、超高速移動ができない以上、他の知性体のいる星に移動するには宇宙は広すぎる。この条件の元、全宇宙に拡散しはじめた種族がどのような特徴を持つのか…。こちらもまた、どエラいお話になっております。


そして、2〜5巻で人類と太陽系宇宙というミクロな世界(太陽系ですらミクロの世界だ!)のお話と、5巻で明らかになった全宇宙のお話が、6巻でついに直接的に結びついていきます。過去に登場した様々な勢力の諸々の思惑により宇宙戦争が勃発するのですが、その背景にはやっぱり、「覇権戦略」を押し進めるあの種族の存在がおりまして…。この巻での戦争描写は、宇宙を舞台にした戦争ならではのものなっており、戦術も地球での戦争とは大きく異なっています。例えば、会敵から直接の戦闘状態に陥るまでに数日掛かり、それまでにミサイルを先行させておく、電子戦に備える、などの描写は宇宙戦争ならでは。個人的には、以前にアニメ「モーレツ!宇宙海賊」を見ていたことで、戦争シーンをイメージがしやすかったように思います。もし機会があれば、本作を読む際にこちらも見ていただきたいなぁw


そして6巻が終わった段階で、太陽系人類の文明は大きな岐路に立たされます。いったいどういうお話になっていくのかは、これから先のお楽しみ。この壮大かつバラエティーに富んだSF大作をぜひ手に取っていただき、先を想像しながらワクワクする喜びを堪能していただければと思います。 以上、簡単にではありますが、「天冥の標」シリーズの紹介でした。まずは1巻、または読みやすい2巻だけでもよいので、手にとってもらえれば嬉しく思います。

天冥の標 6 宿怨 PART3 (ハヤカワ文庫JA)

天冥の標 6 宿怨 PART3 (ハヤカワ文庫JA)

原作信者による漫画「オイレンシュピーゲル」感想

結論から言うと、冲方丁オイレンシュピーゲル」のファンのみなさん、二階堂ヒカルが描く漫画版「オイレンシュピーゲル」は絶対に読んでください!


…さて、私は原作である「オイレンシュピーゲル」「スプライトシュピーゲル」のいわゆる「シュピーゲルシリーズ」を愛してやまず、冲方丁の代表作はシュピーゲルシリーズであると恥ずかしげもなく公言しております。もちろん、マルドゥックシリーズも大好きですが(天地明察は…まーぼちぼちw)。 そんな私ですので、漫画化については期待もありましたが、当然不安もありました。テロあり核あり人種問題ありの何でもありなうえ、過剰なほどの情報量で書かれていた原作であるだけに、幾つかのシーンをちょろっと絵にして、適当なところで終わるような漫画になるんじゃないかと。


が、実際に1巻を読んで驚きました。冒頭から涼月(14歳)はちゃんとたばこ吸っている!…というのも含めて、原作が忠実に漫画化されていました。それも、ただ原作をなぞる、というレベルではなく、原作の短編1巻分をコミック1巻で描くという規格外のボリュームで!原作の情報過多ぶりに対し、コミック版は相応のボリュームで応えてくれました。また、アクションシーンもいっさいの妥協がなく、夕霧のワイヤーで人がバラバラになるわ、陽炎の狙撃で首はなくなるわで、いっさいの手加減なし。少し少女漫画チックな絵柄に対して、アンバランスなくらいの容赦のなさに、原作の熱量を失わずに漫画化してやろうという作者の気迫が感じられました。…副長や中隊長は、私の中ではもっとおっさんなイメージだったけれどもw


そしてそのボリュームと手加減のなさは、原作2巻のエピソードに当たるコミック4巻以降も続きます。原作2巻は核兵器によるテロリズムを涼月たちの属する警察組織(MPB)が阻止するという、かなりやばいもの。しかも、原作は2007年の発行ですが、漫画版の4巻は福島原発事故以降の2011年5月。にもかかわらず、夕霧が放射能漏れに対する情報統制の作戦に参加する等、発行当時ではかなりセンシティブだったであろう場面も容赦なく描かれていました。また、拷問シーンなどのえぐいシーンもそのまんま…。想像ではありますが、これらのシーンを描くにあたり、漫画家さんや編集さんを含めた関係者の方々によるなにがしかの判断はあったかと思います。リスクを避けるために、お茶を濁すこともあり得たはずだろうと。それでもこれらのシーンが余さず描かれたのは、原作に対する敬意と熱意があったからこそだと思います。


そして白眉は、最終巻となってしまった7巻で描かれるアクションシーン。ユーリ部隊+涼月による無音の戦闘シーンの激しさと無情。陽炎とロートヴィルトという射撃手どうしの緊張感。私が原作中でもっとも「震えた」シーンが、まさにそのままの熱量で描かれていました。この二つのシーンは、原作小説のクランチ文体(体言止めや記号(/+等)をぶち込んだ独特の文体)だからこそ描けたシーンだと思いますが、それが見事に漫画化されており、原作を読んだときの震えがよみがえるようでした。…ユーリの部隊による過酷な戦闘のあと、「死者が生者の道になる」というユーリの言葉が語られるシーンは、展開を知っているにも関わらず、不覚にも涙しましてしまいました。


そんな漫画版ですが、残念ながら7巻(原作の2巻のエピソードまで)をもって完結、という形になりました。ファンとして、残念な気持ですし、もっともっと先まで読みたいという気持ちが強くあります。しかし、私のオールタイムベストの1冊である原作2巻のエピソードが、このクオリティーと熱量で描かれたことは本当に幸せなことでした。特に、原作のシュピーゲルシリーズがお世辞にもメジャーとはいえない作品であるため、原作読了時にはまさかこのような幸福な漫画化があるなど考えも及ばなかったため、喜びもひとしおです。素晴らしい漫画を描いてくださった二階堂ヒカルさん、またボリューム・内容含めてさまざまな無茶をやってくださった関係者の方々に、ただただ感謝です。


…蛇足。漫画版でもやっぱり陽炎は乙女で可愛いなぁw

アニメ「氷菓」の19話「心当たりのある者は」がすごい。

次に2012年アニメの振り返り。年末に飲みながら話していたベスト3は以下のとおりです。


1.氷菓
2.坂道のアポロン
3.あの夏で待ってる


なんか全部学園ものなんですがw そのほか、モーレツ宇宙海賊謎の彼女Xとなりの怪物くんなどもよかったですねぇ。そんななか、2012年で「この一話がすごい!」と感動した「氷菓」の19話「心当たりのある者は」についてざっくり感想を。


「十月三十一日、駅前の功文堂で買い物をした心当たりのある者は、 至急、職員室柴崎のところまで来なさい」


偶然流れた上記の校内放送がどんな意味を持つかについて、奉太郎とえるが推論していくという、ただそれだけのお話。登場するのは奉太郎とえるの二人だけで、場面も30分間ずっと古典部の部室。事件も起こらなければ証拠集めもしないため、内容としても映像としても地味になりそうなものです。が、これが抜群に面白かった!あまりに面白いので、私はこの1話だけを20回くらいは繰り返し見ていますw


まずミステリとして。校内放送を単語単位にまでばらし、それぞれを分析して意味を考えていくことで、一見なんの変哲もない文章から不自然な点が浮き上がってくる。この感覚がたまらなく気持ちよく、ワクワクしました。分析と推論の立て方が丹念に説明されているため、ミステリ作家の思考プロセスを追体験できる喜びもありました。米澤さんはこうやって状況を整理して、そのうえでトリックを考え出しているのだなぁと。まさに、マジックの仕掛けのネタばらしをしてもらったときのような興奮を覚えました。


また演出面では、状況を整理するときのピクトグラムを使った映像がスマートでした。理屈っぽい説明の場合、活字だと読者は自分のペースで読めるため理解しやすいですが、アニメだと視聴者が理解しないままに説明が流れてしまう・・・ということがあります(劇場版パトレイバー2で淡々と続く会話を聞かされて、あんなの一回みただけじゃ理解できねぇよ!と憤った記憶がw)。しかしこのお話では、奉太郎とえるの会話にピクトグラムを使ったシンプルで動きのある説明映像を重ねることで、ややこしい推論の課程をわかりやすく説明しています。私は理解が遅く、本を読むスピードもひどくゆっくりなのですが、そんな私でも一回目の視聴ですんなりと推論の課程を把握できてしまいました。地味なことかもしれませんが、理屈をスムーズに説明できる演出力に私は脱帽しました。もちろん、わかりやすいだけでなくて楽しい映像に仕上がっており、見ていて楽しいものになっています。


以上のように、見せ方も含めてミステリとして抜群に面白く、演出面でもキレキレなこのお話。が、何よりも素晴らしいのは、これだけのことをやっておきながら、結局のところ奉太郎とえるがただいちゃついているだけじゃねぇか!ということなのですw や、もうね、ちょっとしたところで二人が近づきすぎて照れちゃったり、奉太郎がえるをからかってみたりと、結局推理ゲームを肴にいちゃいちゃしてやがるわけですよ!お前ら早く付き合っちゃえよ!・・・と、思わず取り乱してしまうくらい、なんというか、二人が妙に可愛いのですw 推論をすることで何かの問題が解決するという類のお話でなく、あくまで推理ゲームであるだけに、結果としてただ二人が仲良くしている感が凄いのですよね。また、たったそれだけのために一話が使われている贅沢感! 私、こういうお話大好きですw


なお、原作とを読むといちゃいちゃ感はほとんどなく、このあたりは「氷菓」に対する京都アニメーション側の味付けの方向性が出ているところでしょう。原作ファンにとっては受け入れにくい面もありそうです。・・・が、私はこの味付けを全面的に受け入れます!だって可愛いものw そんなわけで、最終的には自分の趣味趣向が全面に出たレビューになってしまいましたが、自分にとって「心当たりのある者は」は2012年で一番大好きな一話となりました。

2012年の読書の振り返り。

久しぶりの更新です。最近は、下記のブクログにて地味に読書感想を書き続けております。
http://booklog.jp/users/degarashi


その中で、2012年に☆5つをつけた作品は3つでした。


高野和明「ジェノサイド」
小川一水「天冥の標? part2」
渡航「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている 6」


「ジェノサイド」は昨年のこのミス大賞1位作品ですが、実際に読んでみると設定は完全にSF。人類よりも上位の存在を仮定することで人類の欠点を示すという、山本弘「アイの物語」と同じテーマを持つ作品でした。二人の日本人作家が、人類に対して共通の危惧を持ち、それを作品にしたという事実に心動かされるものが。
もちろん見せ方は異なっていて、ジェノサイドは国家的な陰謀、傭兵たちの泥沼の戦争等々、男の子的に楽しめる要素が多いですね。特に傭兵たちを描いたパートの緊張感はたまらなかった!テーマ性、エンタメ性、どちらをとってもすばらしい作品でした。


「天冥の標? part2」は、全十巻が予定されているシリーズの、6巻のpart2。しかも次巻は6巻のpart3ということで、ここで話は閉じていませんw にもかかわらず、今年読んだ小説の中で一番面白かったと断言できる、最高の作品でした。2〜5巻で登場した太陽系の様々な勢力が、この6巻で様々に絡み合って歴史が大きく動いていく。そしてその背景に、非展開体であるノルルスカインとオムニフロラによる全宇宙規模での覇権争い(5巻)まで絡んでおり、全く先が読めない面白さ。小川一水は、いったいどんな世界を創造しようとしているのだろうか・・・。
また、6巻のキーフレーズ「おめでとう。もう、やめていいのです。」が登場するシーンの演出が、とにかく痺れましたねぇ・・・。SF小説としての世界観、エンターテイメントとしてのワクワク感、そして演出の素晴らしさと、どこをとっても素晴らしく、文句なく今年一番興奮した作品でした。


「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている」は、タイトルからわかるとおりライトノベルで、著者も20代中盤と若い方。多くの才能あるライトノベル作家が一般文芸に移り、全体の層が薄くなった印象を持っていた私にとって、渡航という新世代のラノベ作家の衝撃は大きかったです。ライトノベルならではの軽妙な語り口ながら、高校という組織で発生する人間関係の描写が巧み。乙一と同様、いわゆるスクールカーストの底辺にいる主人公をおもしろおかしく描きながらも、彼らとクラス内で「イケている」側の人々を(半ば無理矢理)交流させることで、お互いが少しずつ理解しあい、でも仲良くなるわけでもない・・・という前向きすぎない絶妙な成長が描かれます。
今年発売されたのは4〜6巻で、6巻でシリーズを通しての大きなテーマが一つ解決されました。6巻は文化祭の話ながら、主人公の八幡は表舞台に出てくることなく、実行委員会で延々と事務仕事をこなすという地味っぷり。にもかかわらず、著者お得意の「社畜」ネタを連発して笑いを誘い、地味な仕事を楽しく読ませます。また中盤以降、八幡が周囲の白い目を無視してダークヒーローとして振る舞う姿は、痛々しくもあり、またどこか爽快感もありで、見事にエンターテイメントしていました。八幡の活躍を知りながら、何も言えずに見守る人々の辛さもひしひしと感じられた6巻。今後、八幡がどのように生き、成長していくのかに期待です。
・・・ちなみに、個人的には夏休みのモラトリアム感が満載だった5巻もよかったです。シリーズもののライトノベルだからこそできる、弛緩した、でも青春なエピソードたちでした。


その他、☆4つで印象に残った作品についてざっくりと。


秋山瑞人「DORAGONBUSTER 2」は、まさか2巻がでるとは思っていなかった作品w 寡作な作家の久しぶりの新作は、印象深いシーンとバリバリに格好いいアクションシーンが満載で、楽しませていただきました。作品のクオリティを見るにつけ、秋山さんの筆力にまったく衰えは感じられないのですが、なぜこんなに書くペースが遅くなってしまったのだろうか・・・。3巻が読めるのはきっと2015年くらいかな?w が、続きが楽しみな作品です。


チャイナ・ミエヴェル「都市と都市」は、一つの土地に二つの都市が存在するという、奇想譚的な設定。そして面白いことに、その奇想的な設定を背景にしながら、話の筋はまっとうな刑事もののミステリになっています。事件の真相もこの設定ならでは。また、ディテールがしっかりしているため、このむちゃくちゃな世界観に全然嘘くささがないのがいいですね。序盤は話を飲み込むまでに時間が掛かりましたが、それ以降は一気に楽しめてしまう作品でした。


安田浩一「ネットと愛国」はノンフィクション作品。私はインターネットによるコミュニケーションをきっかけにして、同じ趣味を持つ多くの人々と出会うことができました。その経験から、インターネットコミュニケーションのプラス面を大いに評価してきたわけですが、そのプラスの側面とまさに同じ構造で、在特会という集団が出来上がっていたことが興味深かったです。SNSがきっかけになった「アラブの春」も大きな岐路にたっている現在、インターネットコミュニケーションをどのように生かし、またどう抑制していくかということが、今後の大きな課題になりそうです。


冲方丁「光圀伝」は、水戸光圀というひとりの一生を描いた作品。冲方さんの歴史小説は「天地明察」ではなく「光圀伝」だ!と、声を大にして言いたい。歴史小説ながら、冲方さんらしい激しさを持った作品です。光圀の持つ強烈な個性が、いい意味で冲方さんの書きっぷりを過剰にしたんじゃないかなぁ。また、江戸の大火で多くの人や物を失うシーンは、著者自身が福島で被災している経験があるからこそ書けたシーンだと思います。このシーンは胸に迫るものがありました。


・・・と、2012年に読んだ作品をざっくりと振り返ってみました。2012年はあまり冊数が読めなかったのですが、それでもよい作品にたくさん出会うことができました。今年はもうちょい読む量を増やしたいですね。また、年末にkindleを購入したので、今年は個人的な電子書籍元年になりそう。まだまだ売っている本の数が少ないのですが、買えるものはkindleで買っていくようにしたいですね。

「けいおん!」批判に対する反論

Wikipediaで「けいおん!」を調べていたところ、「評価」という項目に相変わらず的外れな見解が紹介されておりゲンナリ。そんなわけで、ここでは「けいおん!」のようないわゆる「萌え4コマ」と言われるジャンルに対する一般的な批判への反論を試みます。また、そのうえで萌え4コマを中心としたキャラクターものの作品をどう楽しみ、どう評価すべきかについて検討します。
ちなみに、「けいおん!」に対する批判がこの記事を書くきっかけになっていますが、事例として主に取り上げる作品は萌え4コマの元祖ともいえる「あずまんが大王」です。なぜかと言えば、「あずまんが大王」は萌え4コマを語る上で典型的によくできている作品だからということと、「けいおん!」の原作を私が読んでいないからということw や、アニメ版が好きすぎて原作に手が出ないという状況なのですw 


Wikipediaの「けいおん!」の記事にある「評価」の項目で見てもわかるとおり、萌え4コマに対する一般的な批判はこんな感じ。


・ストーリー(ドラマ)がない
・4コマの基本である起承転結やオチが重視されていない
・登場人物の成長が描かれない


こうした批判をする人の中には、「物語」というものに対して確固たる見方があるのでしょう。しかし、私から言わせれば「見方が古い」。萌え4コマの面白さは、旧来の「物語」とは違うところにあるわけで、それを旧来の見方で無理やり見ようとするから、上記のような的外れな批判がでてくるのです。てなわけで、上記の批判について一つずつ反論を。


■ストーリー(ドラマ)がない
まず「ストーリー(ドラマ)がない」という点。これは「物語の中心はストーリーにある」という古い見方からきている批判です。しかし、一般的に萌え4コマといわれる作品の中心はストーリーではありません。キャラクターです。萌え4コマにおいて、ストーリーとはキャラクターを魅力的に見せるために存在するもので、思い切って言ってしまえば枝葉末節に過ぎない。この「ストーリーを描くことを目的としない」という点こそが、萌え4コマの持つ革新性で、過去の一般的な物語とは大きく異なる部分です。にもかかわらず、旧来の観点からあくまでストーリーを見ようとするから、ピントのずれた批判になるのです。萌え4コマにおいては、作品の中心となる「キャラクター」を評価してこそ、その作品を評価したと言えるのです。


ただ一方で、萌え4コマを評価する側からも、中心であるはずのキャラクターをどう評価するかについて、観点が示されてこなかったのも事実。この点については、後で自分なりの観点を提案したいと思います。


■4コマの基本である起承転結やオチが重視されていない
次に「4コマの基本である起承転結やオチが重視されていない」という点について。これも「4コマという手法であるからにはオチを描くことが目的でなければならない」という固定観念からくる批判で、的外れなものです。萌え4コマにおいて、4コマという形式を採用する目的はオチにあるのではなく、自由に場面を切り替えられることにあると考えます。


4コマの場合、一つの話が終わった後、次の話を同じ場面としてもよいし、別の場面に切り替えてもよい。例えば、教室で会話をする場面を4コマで描いたあと、次の話(4コマ)では会話の続きを描いてもよいし、いきなり外で体育をするシーンに切り替えてもよい。どちらの場合でも、4コマという手法で描いた場合には不自然ではありません。通常の漫画の手法でコロコロと場面転換した場合、ぶつ切りで読みづらい印象になることを想像してもらえれば、4コマの場面転換の早さがメリットであることを理解してもらえるかと思います。


そして、一つの物語の中で多くの場面を配置できるということは、笑いの面でもキャラクターを描く面利点があります。笑いの面で言えば、笑いどころを多く作れる点、キャラクターの面で言えば、キャラクターの魅力的な側面を多く見せられる点です。おおざっぱに言うと、一つのコメディー作品ではなく、ショートコントを複数集めているという印象でしょうか。もちろんこの手法だとストーリー性は弱くなりますが、萌え4コマの目的はストーリーを描くことにはないことを考えれば、この手法が合理的であることがわかります。


ちなみに「あずまんが大王」をぱらぱらめくってみたところ、3巻の「March-part2」(連載の1回分)では、15本の4コマが掲載されており、その中に五つの場面が描かれていました(体育の授業、英語の授業、休み時間(ちよと智の会話)、休み時間(榊と神楽の会話)、ちよの家)。この話を読むと、多くの場面を描くことで、各キャラクターの魅力的・特徴的な部分がテンポよく示されていることがわかります(大阪の不思議な部分、ゆかり先生の意地悪な部分、智の子供っぽい部分、ちよの負けず嫌いな部分…)。


■登場人物の成長が描かれない
次に「登場人物の成長が描かれない点」という点。これも「物語は成長が描かれなければならない」という、昔ながらも見方からくる批判です。「けいおん!」にせよ「あずまんが大王」にせよ、成長や変化が描かれていないわけではありません。ただ、確かにストーリーを中心とする旧来の物語に比べると劇的な変化が描かれているわけではありません。この変化のなさ(少なさ)も、キャラクターを魅力的に見せるという目的に沿った手法であると考えます。


キャラクターの魅力を示す一つの方法として、キャラクターの「らしさ」を見せるというやり方があります。「けいおん!」でいえば、平沢唯なら「天真爛漫」、秋山澪なら「怖がりで引っ込み思案」など。こういった「らしさ」を何度も見せることでキャラクターの個性を確定していきます。そして、用意されたさまざまな場面の中で、確定された「らしさ」を何度も見せていくことで、キャラクターの魅力(可愛らしさ)が読者に刷り込まれていくのだと考えます。


言うなれば「らしさ」はキャラクターの個性です。個性が失われてしまっては、そのキャラクターの魅力は一貫したものにはなりません。そして、萌え4コマにおいて、「成長」による変化以上に重要な要素は、「らしさ」を常に保つ、いわば「キャラクターの一貫性」にあるのです。「あずまんが大王」を例にとると、「天然ボケ」という個性を持つ大阪が、的確にツッコミをいれるような場面は作られません。ツッコミ役は必ず暦とちよになります。どんな場面でもキャラクターの個性をストイックなまでに守ることで、キャラクターの個性や魅力をブレないものにしているのです。


これは、ギャグを目的としてた従来型の4コマや、ストーリーを中心とした旧来の物語には見られない大きな特徴と言えます。例えばギャグを目的とした従来型の4コマである「コボちゃん」では、早苗がクールなのかおっちょこちょいなのかはっきりしなかったり、耕二にはあまり色がなく、場面に合わせてツッコミに回ったりボケに回ったりします。これは笑いのための必然であるため問題ないわけですが、キャラクターを魅力的に描くことが目的である場合、歓迎されない手法でしょう。そして、「キャラクターの一貫性」を保つことでキャラクターを魅力的に描く萌え4コマの構造においては、作中で劇的な成長を描くことは一貫性を損なう可能性があり、得策ではないと言えます。


私が読んでいて驚いたのが、「あずまんが大王」4巻の165ページにて、卒業を前にした主要キャラクターたちが会話をする場面。大阪が「私はだいぶしっかりしてきた」と言ったことにたいし、暦が「今のは聞き捨てならねーぞ!」とツッコミを入れるのです。高校3年間を描いてきた作品の中で、卒業式を前にして「成長の否定」をネタに使えるのがこの作品の凄さ、従来の作品とは大きく異なるポイントだと私は思います。深読みしすかもしれませんが、あずまきよひこ先生はあえて「成長の否定」をネタとして使ったんじゃないかと思っています。従来の「成長ストーリー」とは違うものを書いているのだという主張だったのではないかと。


ついでに言えば、高校3年間を描いたときに成長が描かれないのではリアリティーがない、という「あずまんが大王」や「けいおん!」に対する批判自体が、あまりにも旧来型の物語に縛られた見解である気がします。現実には、高校3年間で大きく変わる人もいればそうでない人もいる。にもかかわらず、物語に登場するキャラクターは3年間を過ごせば変わらなければならないという考えは、物語に対して固定観念があるからにほかなりません。もちろん、ビルディングスロマンにおいて成長が描かれていないとなれば問題外です。しかし、「あずまんが大王」や「けいおん!」はそういう種類の作品ではない。批判するポイントがずれているのです。



以上、萌え4コマに対する批判が従来型の物語の見方から出てきた偏見である、ということを書いていきました。また、萌え4コマでは評価の中心はストーリー(ドラマ)性ではなく、キャラクターを魅力的に描いているかどうか、という点になると主張してきました。ここでは、キャラクターが魅力的に描かれているかどうかを評価する上で、どのようなポインがあるのかについて、持論を述べたいと思います。


■キャラクターの一貫性
まずは、先の反論の中でも書いてきたとおり「キャラクターの一貫性」が挙げられます。確定されたはずの「らしさ」がブレると、キャラクターの個性は確固としたものにはならず、読者の抱くイメージや期待に反することになります。一貫したキャラクター性を保った上で、キャラクターの「らしさ」を4コマならではの場面転換の早さでテンポよく見せていく。もちろん、「らしさ」を笑いのポイントに使うことでより魅力を引き出していく。これがうまくできている作品は、良い作品であると考えます。


ちなみに、アニメ「けいおん!」において私が大きな欠点であると感じているのは、第1話「廃部」です。この話において、律が「使えないドジっ子」と評しているとおり、唯のキャラクターはおどおどしたドジっ子です。しかし、2話以降の唯の行動を見ると、「天真爛漫」「マイペースで怖いもの知らず」といった印象になるでしょう。例えば、番外編の「ライブハウス!」(テレビでは未放映)では、律や澪がヤンキー風の怖いバンドのお姉さんにおびえているのに対して、唯は何事もなく質問をする場面があります。この場面はいかにも唯らしい天真爛漫さが出ていて大好きなのですが、この唯の性格と「廃部!」での唯とは性格には大きなズレがあります。「高校生活を通じて成長したからだ」という反論もあるかと思いますが、「おどおど」が「怖いもの知らず」に変わるきっかけになるようなストーリーは作中に見当たりません。1話については、「キャラクターの一貫性」という観点から、評価できない話であると考えています。


■キャラクター同士の関係性

次に重要だと考えるのは「キャラクター同士の関係性」です。「ツンデレ」や「天然ボケ」などの記号を付ければキャラクターは可愛く見える、という誤解がありますが、そんな作品は何百何千とあります。その中で、なぜ「あずまんが大王」や「けいおん!」のキャラクターたちが話題になったのか。それはキャラクターが個人で立っているのではなく、主要メンバー内の関係性を複雑に描くことで、キャラクターが多面性を持つからだと考えます。


例えば、「あずまんが大王」の大阪は「天然ボケ」というキャラクターで、悪く言えばよくある「属性」をもったキャラクターと言えるでしょう。しかし、大阪の「天然ボケ」によって引き出される空気は、会話の相手となるキャラクターによって大きく変わってきます。ちよは「困りながらツッコミを入れる」、暦は「激しくツッコミをいれる」、榊は「困る」、神楽は「大阪の言動を信じてしまうなどのバカさを見せる」、そして智は「二人でボケ倒す」。特に大阪と智が会話するシーンでは、ツッコミなしで二人がわけのわからない不思議な会話が繰り広げられるという、独特の雰囲気があります。「あずまんが大王」の完結後、10周年企画として書かれた「補習」(1年生)では、大阪と智が公園でただ亀をひっくり返す、という場面が描かれるのですが、この場面はギャグではなく、二人の醸し出す異様な雰囲気が妙におかしいのです。


このように、一人では「天然ボケ」という「らしさ」だけを持っているキャラクターが、会話するキャラクターの組み合わせによって様々な側面を見せてくれます。前述の「キャラクターの一貫性」を保ちつつ、キャラクター同士の組み合わせによって「らしさ」の範囲内で異なる側面、雰囲気を見せてくれる。関係性の中でキャラクターが多面性を見せることで、よりキャラクターが立体的になり、より魅力的に見えるのです。


アニメ「けいおん!」の第2期では、14話「夏期講習」で律と紬が二人で遊ぶ場面があり、16話「先輩!」では梓と紬が部室で二人きりになるシーンがあります。この組み合わせは作中では珍しい組み合わせで、作品の中でも独特の雰囲気があり楽しいお話でした。14話の律が紬をエスコートして遊びに連れだす場面は、律の「お姉さん」らしい側面が見えますし、紬の「無邪気」さが引き立ちます。16話では、部室で二人きりになったことを意識してして緊張する梓に対して、いつも通りに抜けた可愛らしさを見せる紬と、少し不思議な雰囲気です。そして、紬の「つまみ食い」をきっかけに梓の緊張が解け、二人で笑いあうシーンは、とても幸福で素晴らしいシーンでした。


このように「珍しい組み合わせ」を作中で描くことは、キャラクターをより多面的に見せるうえ、一つの作品の中で様々な雰囲気を醸し出せるという意味で、重要な要素であると考えます。個人的には、「けいおん!」2期の14話、16話のような物語が描かれるのは、キャラクターものという作品の性質上、必然であったと考えています。



以上、「けいおん!」批判への反論と、萌え4コマのようなキャラクター重視の作品を評価する上での視点の提示を試みてみました。「けいおん!」のようなキャラクター重視の作品については、サブカル系の評論では「視聴者・読者層の薄っぺらさに対する批判」がなされるか、または無視される傾向にあり、まともな評論を避けられている印象があります。しかし、「ストーリーもなければ新しさもない」という批評では、数あるキャラクター重視の作品の魅力や、特に「けいおん!」がなぜ突出しているのかという点について1ミリも説明できません。アニメ「けいおん!」を愛する一ファンとして、私はこのお話のどこが優れていて面白いのかを解明したい。そのような想いから、「キャラクターの一貫性」と「キャラクター同士の関係性」という観点を提示してみました。「けいおん!」や「あずまんが大王」を中心とする、物語ではなくキャラクターを重視するという革新的なスタイルの作品群について、何が面白さにつながるのか、今後は真剣な議論がなされることを期待しつつ、この文章を終わりにしたいと思います。