「終わらぬ「民族浄化」 セルビア・モンテネグロ」

1999年のNATO軍の空爆により、コソボ紛争は公式には「終結」したことになっている。しかし現地では、セルビア系の民間人が三〇〇〇人規模で行方不明になるなど、空爆前とは違った形で「民族浄化」が続き、住民たちは想像を絶する人権侵害の危機にさらされている。また、空爆による劣化ウラン弾の被害は甚大で、すべての回収には一〇〇年を要するという。本書は、空爆終了後六年間にわたって現地に通い続けた唯一のジャーナリストが、九・一一やイラク戦争の開始以降ほとんど報道が途絶えてしまったセルビア・モンテネグロの現状を告発した、渾身のルポルタージュである。


●内容
「悪者見参」の続編に当たる内容です。NATOによる空爆後のコソボを中心に、「悪者」にされたセルビア人たちの悲劇を取材しています。前作と同様、政治や歴史を大上段から論じるのではなく、旧ユーゴで生活する一般の人々の姿を伝える形式です。
取材の姿勢が「悪者見参」とまったく同じなんで、なんでこれを新書で出したんだろうと思うくらい。おそらくは、新たな読者層(おもに知識人層?)にアピールするためなんでしょうね。ほとんど「サッカー」という単語が出てこないのも、そうした人々に読ませるための工夫だろうと思います。なので、「サッカー」が出てくる時点で手を出しづらいと思っていた方々は、この本から読んでみるのも良いのではないでしょうか。これを読めば、木村氏が「ただの」サッカージャーナリストではないことは一目瞭然ですから。


●民族問題
日本人である私には、民族問題について知ることはできても、「実感できる」と言うレベルでは理解できません。これは本当に幸福なことなんでしょう。この本からみえてくる旧ユーゴの現状はあまりにも複雑で、あまりにも悲惨です。
話題の中心になるコソボでは、旧ユーゴで多数派であったセルビア人が、コソボでの多数派であるアルバニア人に抑圧されます。バルカン半島では、国や地域によって多数派になる民族が異なるため、ある地域では加害者と思われていた民族が、他の地域では被害者になります。その結果、例えば「セルビアで多数派であるセルビア人によって、アルバニア人が被害を受ける→アルバニア人セルビア人に憎しみを持つ→コソボで多数派であるアルバニア人によって、セルビア人が被害を受ける→セルビア人はアルバニア人に憎しみを持つ→…」という形で、憎しみの悪循環が起きてしまうのです。この悲惨さは、この作品からだけでも十分に知ることができます。しかし、過去の作品も何作か読んでいる立場としては、時間が経っても状況がまったく改善されていないことに絶望感があります。アルバニア人マケドニアでもゲリラ活動を行っていることなんか知ると、悪化している感すらありますからね…。


●日本人への「アピール」
この作品では、「悪者」にされたセルビア人のおかれた現状をアピールするために、「拉致」と「放射能」という、日本人に理解しやすいテーマを話題にしています。
まずは「拉致」について。この本では、コソボセルビアの民間人が(おそらくアルバニア人によって)3000人も拉致されているにもかかわらず、被害者が「悪者」であるセルビア人ということで、国際的にはまったく問題になっていない現状について書かれています。
次に「放射能」について。NATOによるセルビアへの空爆時に劣化ウラン弾が使用されました。そして、回収された劣化ウラン弾や、セルビア内の原子炉で発生した放射性廃棄物は、不適切な管理状態におかれているため、放射能が土壌に漏れ出しているであろうとのことです。これらの管理にお金が回せないのも、経済制裁の影響や、「悪者」であるセルビアに対して支援や援助が行われないことが原因になっています。
このテーマの選び方は、拉致がいかに非道な行為であるかを知り、また放射能の恐ろしさを知っている日本人であれば、この状況がいかに悲惨で理不尽なものであるかわかるだろう、という木村氏のアピールですね。今回の作品では、今まで以上にこうした「アピール」が行われているなと思いました。こうしたアピールの手法も、あとがきに書かれているように「戦争広告代理店」に対する何がしかの反発なのかもしれません。


●「戦争広告代理店」高木徹氏との対談を望む
木村氏と高木氏。同じユーゴスラビア題材を扱い、ともに高い評価を得ているジャーナリストですが、その手法と経歴は好対照といえます。木村氏は失踪プロダクション(正直、どういった会社か存じ上げません)からフリーとなった方で、現地に入ってガシガシと取材していく行動派の記者。対する高木氏は、NHKというエリート組織に所属し、関係者の取材を通して事実を明らかにするタイプの記者。作品からわかるとおり、どちらも超のつくほど優秀な記者でありながら、フリーとサラリーマンという立場や、その取材手法がまったく異なるお二方。このお二人がユーゴについて異なる角度で切り込んでくれたことで、日本でのユーゴについての見方はかなり変わってきたのではないかと思います。少なくとも、有識者と呼ばれる方々の中で、いま単純にNATO空爆を支持する発言をすれば、必ず誰かが待ったを掛ける状況はあるでしょう。これは推測でしかありませんが、ユーゴについての文献で、日本よりも質の高い作品がそろっている場所は少ないのではないかと思います。
で、そうなればやはり、このお二方に一度でよいから対談をしていただきたい。というか、誰か企画しなさいw この作品のあとがきによれば、木村氏は高木氏の取材手法について疑義を呈しています。いわく「取材していたなら、ボスニア紛争時になぜルーダフィン(でがらし注:戦争広告代理店に登場する広告業者。「セルビア=悪」のイメージを刷り込む)の事を発表しなかったのか。全部終わってから種明かしのように見せられると、紛争を「ネタ」としか考えていないのかと考えてしまう」とのこと。これについては、もちろん高木氏にも言い分があるでしょう。また、高木氏からみて木村氏の取材姿勢をどう思うかなど、いろいろと議論できることはあるかと思います。それはユーゴを多角的に見る視野を得る意味でも、またジャーナリズムのあり方を考える意味でも、とても貴重な対談になるのではないかと思います。また、優秀な記者同士、対談すれば案外意気投合するんじゃないかという気もしますw どこかの雑誌で企画してくれないかなぁ。