「沈黙」

“あたし”秋山薫子の母を産んですぐに亡くなった見知らぬ祖母・下岡三稜の実家は、中野区に屋敷を構える大滝家だった。大東亜戦争時、あらゆる声と言語をあやつり固有の顔を持たぬ特務機関員として南方戦を生きた大滝鹿爾。防音された地下室で、ジャケットとレーベルのない数千枚のLPレコードを聴き、十一冊のノートを残した、その長男・大滝修一郎。「屋敷をぎりぎりまで成仏させたい」と願う三稜の姉・大滝静。謎の死と破滅と孤独―“あたし”が掘り起こした大滝家の来歴は、歴史の落とした影が血族の闇となっていた。そして、いまだ生き続ける呪詛。“あたし”秋山薫子は誰なのか?失踪を繰り返す弟・秋山燥は?生きとし生けるものを覆い尽くす『根源的な悪』の正体を明らかにし、生命の意味と生きる意思を啓示した傑作長篇。


古川日出男作品では「ベルカ,吠えないのか?」以来の衝撃。なんというか,ただただ圧倒されていました。ちょっと忙しかったためちびちびと読み進めていましたが,この作品は一気読みしたかった。


過去に存在したと言われる「ルコ」という音楽の歴史,大瀧修一郎,大瀧鹿爾を中心とした大瀧家の歴史,そして今を生きる薫子とその弟の操(やける)…。この三つの物語が同時進行的に進んでいく形式で,作品は進んでいきます。なんといっても,古川氏の得意技,世界史を舞台にした「大ほら吹き」が「ルコ」史の部分で遺憾なく発揮されていて,この部分は本当に面白かった。民族的な音楽であった「ルコ」を楽譜に記したという「コーニリアスの4部作」をめぐるお話の,スケールの大きさ,そして圧倒的な世界観…。もう,これだけで十分に一つの作品ができる内容ですよ!それなのに,このネタを大瀧家の話や薫子の話と平行して展開させて,しかもそれぞれが見事に絡み合ってくるんですから,これで面白くないわけがないですよ!


ルコ史ではただただ圧倒され,薫子と操の話では,ある出来事をきっかけにして変わってしまった操の存在が不気味さを放ち,大瀧家の歴史部分では鹿爾と修一郎の謎に満ちた過去が明かされていき…,と,どの話にも魅力がありました。特に鹿爾の話は冒頭に出てきて以来,なかなか話しに出てこないので,「最初の鹿爾の話がどう物語に関わってくるのだろう?」ということが気になって仕方ありませんでした。先を読むのがたまらなく楽しみになるこの楽しさは,私の中では読書の醍醐味の一つなんだと思います。


また,三つの物語の進め方も面白い。薫子の日常を描きながら,大瀧修一郎の部屋から見つけた「音楽の死」ノートに記された物語も同時に進む形式で進みますが,日常から「ルコ」史へ話が変わるときは結構唐突だったりしますし,いきなり薫子の夢で操(やける)の話が出てきたりと,切り替えが唐突です。以前に読んだ矢作俊彦氏の「ららら科學の子」も,過去と現在の話が唐突に入れ替わる手法だったのですが,「沈黙」のほうが大胆に切り替えが行われている感じですね。特に話の後半で,修一郎の話と薫子の話が重なってくる辺りはかなり唐突に場面が切り替わります。後半のこの切り替えは,鹿爾,修一郎,そして薫子と繰り返される歴史を感じさせて,とても効果的だと感じました。


話の中心になっているのは「生きるための音楽」と「純粋な悪」。ぶっちゃけた話,私は古川氏のテーマ描くテーマは抽象的過ぎてわかりません。この作品でも,なんとなく言っていることは分かるんだけれど…という感じでした。ただ,三つの物語と,それぞれの物語が交錯する感覚を楽しめれば,テーマなんてわからなくても全然問題なく楽しめると思います。かなり独特な,私的な感性を持っている方なので,完全に理解するのはかなり難しいだろうと思いますしね。


一つ不満を上げるとすれば,薫子の物語が若干冗長な感で,私は途中で中だるみしてしまいました。ちょうど「30/50展」の準備で働く辺りの話ですね。藤原さんの話とか,なんであんなに引っ張る必要があったのかあまりわからないんですよねぇ。


とはいえ,不満は本当にそれくらい。もうとにかくお薦めの作品です。延々と古川節で書かれているので,だめな人にはだめかもしれませんが,それでもとにかく一読をお薦めします。特に「ベルカ…」を楽しめた人は必読!


ちょっとした邪推…
この人の書く歴史は本当に面白い。私の場合,古川氏のあまりにもぶっ飛んだ想像力をそのまま提示されると,どうにもついていけないことが多いんです。「アラビアの夜の種族」での無茶苦茶なファンタジー世界とか,「アビシニアン」でのわけわからないラストシーンとか…。それが歴史を書く場合,偽史とはいえ現実の歴史がベースになっているせいか,無から有を作るときとは違って想像力が若干「縛られる」気がするんですよね。で,それくらいだと私でもなんとかついていける,だから面白いのではないか,と邪推してみました。古川脳内ワールドについていける人であれば,それ以外の部分も歴史描写並みに楽しめるのかもなぁ。


ネタバレですが…
なんというか,ルコ史が修一郎の「でっちあげ」だったことが明かされるシーンで,私は思わず噴き出してしまいました。まあ,嘘だろうとこの作品内では全然OKなわけですが,それにしてもあれだけ書いておいてでっち上げって…w さすが古川氏,これだけの壮大なネタでも惜しみなく嘘と言い切れてしまう辺り,やはり並みの作家ではありませんなw