「四畳半神話体系」

妄想してないで、とっとと恋路を走りやがれ!
私は冴えない大学三回生。バラ色のキャンパスライフを想像していたのに、現実はほど遠い。できればピカピカの一回生に戻ってやり直したい! 四つの平行世界で繰り広げられる、おかしくもほろ苦い青春ストーリー。


映画「時をかける少女」が、過去に選択した行動によってその後の未来が変わってくる物語だとすれば、この作品は、異なる選択をしてもほとんど変化のない未来が待っている物語といえるでしょうか。この作品では4つの平行世界が描かれており、それぞれ始まりは大学三回生時なのですが、大学入学時に異なるサークル(?)を選択しています。


・映画サークル「みそぎ」
・樋口師匠の弟子
ソフトボールサークル「ほんわか」
・秘密機関「福猫飯店」


そして、どの話でも冒頭では「異性との健全な交際、学問への精進、肉体の鍛錬など、社会的有為の人材となるための布石をことごとくはずし、異性からの孤立、学問の放棄、肉体の衰弱化などの打たんでも良い布石を狙い澄まして打ちまくってきた」との自虐から入り、一回生時のサークル選択の誤りと、それに付随する悪友・小津のと出会いを後悔。そこから物語はスタートします。


どの世界でも、京都大学という舞台も、(出会い方は異なるものの)登場人物も同じ。エピソードには異なる部分、重なる部分があり、一つの話では参加しなかった闇鍋に別の話では参加しているなどしていて、そういったところに読み手としては思わずニヤッとしてしまいます。ただし、細部は異なるものの結論は一緒。文庫版の解説にも引用されている「可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である」という樋口師匠の言葉に象徴されるように、語り手がどのような選択をしても、彼が望む「薔薇色のキャンパスライフ」には行き着かないw で、そのことを肯定的に捉えるか否定的に捉えるか、というお話なのでしょう。


で、どうしても自分の大学生活を振り返ってしまうのですが、私もどんな選択をしても「薔薇色のキャンパスライフ」には行き着かなかっただろうことは想像に難くないw だから、どの選択肢でも語り手が同じ状況に陥る、というのがすごく理解できてしまいます。 そして、そんなものをドブに捨てでも(むしろ捨てるからこそ?)不毛な遊びに興じるのだ、という点もまた、この語り手(というか森見氏)に共感してしまいます。これ、極論すれば結局、人種の問題なんですよw サークルに入って爽やかに、婦女子ともよろしくやりながら「薔薇色のキャンパスライフ」とやらを楽しめる人種もいることでしょう。しかし、この語り手のような人種の人って、そういう生活をしようと思ってもできないし、はっきり言えばそんなものを楽しめないんだと思うんですよね。この作品の三つ目のお話で、爽やかに汗をかきながら大学生達と交流することを望んで、語り手はソフトボールサークル「ほんわか」に入るわけですが、結果は…。

かくして「ほんわか」に入った私は、にこやかに語らい、爽やかに交流することがどんなに難しいかということをイヤというほど思い知らされた。私の想像を越えたぬるま湯状態がちゃんちゃらおかしく、とても馴染むことはできない。なんだか恥ずかしくてたまらない。


で、当然のように孤立するw この状態を「ちゃんちゃらおかしい」などと感じてしまう人種の人間は、絶対に「薔薇色のキャンパスライフ」にはたどり着けないでしょう。というか、「薔薇色のキャンパスライフ」自体を「ちゃんちゃらおかしい」と感じてしまうに決まっていますw なので、語り手のような人種は、結局のところ小津のような変人が近くにいることを(どんなに恨もうともw)楽しんでしまうわけです。そして、この作品を読めばわかるとおり、こちらはちらで楽しいのです!私自身、学科の人間達が集い爽やかに交流する「ひだまり」なる場所にはまったく近寄らず(近寄れず)、一癖もふた癖もある友人達と「ふきだまり」と称して集まり、酒ばかり飲んでいましたが、楽しかったなぁ。そんなわけで、語り手と同じ人種の人であれば確実に楽しめる作品だと思いますw (同じ著者の「夜は短し歩けよ乙女」に比べて「めちゃくちゃ」な出来事がなかった分、今回のほうが純粋に楽しめました。これについては、好みの問題でしかないですが。)


あと、言わずもがなですが、森見氏といえばやたら内省的で自虐的な語り口調が印象的で、今回も笑わせてもらいました。これ、「NHKへようこそ!」の滝本竜彦氏の語り口調と同じ種類なのかもなぁ。内容はまったく異なるし、「語り口調」という点では森見氏の芸のほうが完成されている印象ですが。私が爆笑した部分の引用を…。

そもそも私はこの女性特有の謎めいたふくらみに男達が右往左往することを苦々しく思い、長年にわたって映像的な方面から考察を重ねてきた人間であるが、なぜあんなふっくらしているぐらいしか取り柄のないものに我々が支配されているのか、その謎は解けていなかった。


「映像的な」ってところが素晴らしいですねw あと、自宅のエロ本コーナーを示す「猥褻図書館」という表現も気に入りました。この辺のセンスはさすがですねぇ。