更新できませんでした。。。

病気のせいで(そして、徐々によくなってきている今は怠惰のせいで)長いこと更新できませんでした。調子もよくなりつつあるので、少しずつですが更新していきたいと思います。でも、いままでよりちょっと短く書くこともあるかも。。。

あと、「とらドラ!」小説版は、友人にまとめて貸してしまっているので、返してもらってから感想書きます。手元に作品がないとやっぱり書きづらいんですわな。

アニメ「とらドラ!」21話の感想

21話「どうしたって」は作中でとても重要なお話ですが、ここでは「罪悪感」発言の回答編としての21話について書いてみたいと思います。例によってネタバレしかありませんので、未見の方は注意。


16話のラストで亜美が実乃梨に言った「罪悪感はなくなった?」という発言。正直、私はすぐには意味が分かりませんでした。実乃梨の竜児に対する気持ちは、意識はしていてもまだ微妙なところにあると思っていたので。しかし、この発言の意味を無理なく説明するためには、大河に対する「罪悪感」が、大河が北村の写真を持っているのを見て「なくなった」と考えるしかありません。そうすると、実乃梨の竜児への気持ちははっきりと「好き」までいっていて、そのことで今まで大河に対して罪悪感を感じていたということになります。また、竜児に好意を持たれていることに罪悪感を感じていた、という部分もあるのでしょう。


さて、「罪悪感」の意味がわかったところで次に謎なのが、亜美がこのような発言をした意図です。もともと亜美は全体の流れを俯瞰して、先を読んで行動するタイプのキャラクターです。そのため、この発言にも何がしかの意図があるはずなのですが、これについてはさっぱり分かりませんでした。そして、17話から始まるクリスマスの話でもなかなか明らかにされません。
ちなみに、何がしかの理由で亜美が大河を応援するような姿勢を見せているのは確かで、罪悪感発言もその一環のはず、という推測はできます。ただそれにしても、この発言以降の亜美の実乃梨に対するあたり方は理不尽なほどに強く、「大河を応援する」ための手段としてやはり適切だとは思えませんでした。


そんなわけで、「罪悪感」発言の意図が謎のまま話が進み、それが明かされるのがこの21話です。実乃梨との喧嘩のあと、雪山を作りながら竜児に「なぜ嫌味(罪悪感の件)を言ったのか自分でも分かっていない」と吐露するのです!その後、「正面から相手してくれない実乃梨がムカついた」とも。亜美とキャラクターの性格上、その行動には何がしかの意図があると思っていたのに、自分でも自分の行動の意味がわかっておらず、ただ単に実乃梨にムカついていただけだったのです!そしておそらく、「ムカつく」の裏には、竜児に好意を持たれている実乃梨に対する嫉妬心があるのでしょう(原作を読むと「嫉妬」という単語も出てきていました)。


「発言の意図が何か?」と考えていたら意図などなかったという、いい意味で期待を裏切られて、驚かされた名シーンでした。また、竜児に忠告しながら、結局亜美自身も「自分のことが分からない」人間であり、4人の関係を俯瞰しているようでも、皆と同じように一人の高校生でしかないことがわかりました。亜美の人間くさいところが見えたことにより、彼女は今まで以上に魅力的なキャラクターになったと思いますねぇ。


さて、この「罪悪感」発言ですが、実は原作小説では発言の直後に「バカなことを言った。言わなければよかった」と亜美が後悔するシーンがあります。この場面で、亜美の発言に意図などなかったことが明かされているのです(実乃梨に対する嫉妬もあったことにも触れられています)。しかし、アニメでは亜美が後悔するシーンをあえて飛ばすことで、発言の意図がどこにあったのかを隠しました。そして、「発言の意図は何か?」と疑問を持たせ続けたことで、亜美が竜児に気持ちを吐露するシーンがとても印象的になっています。本当に素晴らしい演出ですねぇ。原作を読んでみると、アニメ版の完成度の高さがよりわかってきます。


…と、アニメで印象的だった話について書いていきました。もちろん、21話で言えば大河の「どうしたって…」の発言だとか、24話での橋の上(と下)での告白シーンだとか、いろいろと印象的なシーンはありましたが、それらについては「素晴らしかった」くらいしか書けないので省略w 次は原作を読んだ感想をつらつらと書いてみたいと思います。

アニメ「とらドラ!」14話の感想


随分と時間が空きましたが「しあわせの手乗りタイガー」について。まとまらなかったので、3つの観点に分けて書き散らしました。ちなみに、ネタバレしかないので見ていない方は注意。


■脚本の巧みさ


大河を触った人に幸せが訪れるという「幸せの手乗りタイガー伝説」。この伝説を軸にしつつ、主要メンバー5人+2人(1年生の富家とさくら)の姿が描かれています。各人のエピソードはざっとこんな感じ。


・文化祭での出来事から立ち直りを見せる大河
・その大河を心強く思いながらも「大河の幸せ」について考える竜児
・文化祭の出来事もあり、竜児を意識し始める美乃梨
・地元に戻ることを親に勧められる「大人」な亜美
・突然何かを知らされて落ち込む北村
・さくらと幸せになるために「手乗りタイガー」に触ろうとする富家


30分の間にこれだけの話を突っ込んだら、普通はどれも中途半端で訳の分からないものになりそうなもの。しかし、実際に観てみると食い足りなさはまったくなく、コメディーとしてしっかりと面白い。「幸せの手乗りタイガー伝説」という設定もきっちりと絡ませている。後述するように、擬似家族が大河を救うシーンは素晴らしい。さらに言えば、これだけ見事に構成された話が、実は原作にある幾つかのエピソードを寄せ集めて、オリジナルエピソードをプラスしたものだ…となれば、脚本の巧みさに脱帽するしかありません。特に「手乗りタイガー伝説」というエピソードを物語にうまくに絡ませている辺り、よくできた短編小説を読んでいるような気持ちになりました。よくもまぁ、ここまで無理なく、面白く作ったもんです。


■ギリギリな中での純粋なコメディー


文化祭での大河親父事件を経た後で「いつもどおり」の皆が見られる幸福感。それが何より嬉しく、そのために印象に残りました。5人の関係性が徐々に複雑になりつつあるなかで、純粋に「いつもどおり」の関係性の中でコメディーやるのも難しくなってきたところですが、この話ではギリギリのところで5人の関係性の綻びが表面化していません。逆に言えば、それだけに「とらドラ!」という作品の中で大きな意味を持つ話でもないのですが、こうやって5人が仲の良いところを自然に見せるからこそ、その後の関係性の破綻と修復にドラマ性が生まれるのだと思うのです。仲の良いところを見せないで、関係の修復の場面だけを見せられてもしらけますからねぇ。…昔そういう小説を読んだ覚えがあるので、特にそんなことを思いました。


■擬似家族


秋山瑞人版「鉄コミニュケイション」読んで分かったんですが、私、擬似家族的なお話が大好きなんですよw 血のつながりではない「何か」で結ばれた関係性みたいなものを信じたいというか…。そんな個人的趣味もあり、ラストでやっちゃんが放った台詞「うちは3人家族なんだから〜」がもうガツンときましたねぇ。


そして何より、ここに持ってくるまでの展開が素晴らしい。実の父親に捨てられても再び立ち直り、少し無理をしながらでも「いつもどおり」の姿を見せられるようになった大河。そんな大河を見つつ、先述の「幸せの手乗りタイガー伝説」を聞いた高須が「大河自身が幸せになるためにはどうしたらよいのだろう」という超男前(!)発言。そしてその回答にあたるのが、ラストでのやっちゃんの台詞「大河ちゃんをナデナデできて、家族そろって美味しいご飯食べて、それが一番幸せなの〜」。


「幸せの手乗りタイガー伝説」という設定を生かしつつ、傷ついた大河を擬似家族が救う瞬間、そして擬似家族内を包む幸福感が見事に表現されていますねぇ。文化祭のことがあった直後だけに、グッとくるシーンでした。



…そんなわけで、「幸せの手乗りタイガー伝説」という短編小説的なネタを生かしつつ、きれいにまとめた楽しいお話だったなぁと思ったわけです。さらに、亜美ちゃんの「大人〜」ってな話にもきれいに決着をつけていて、構成的にはかなり複雑なものをきれいに締めたなぁと。文化祭以降、ドラマ性のある話が続いたため、どうしても忘れられがちな話なのかもしれませんが、個人的には大好きな話だったので長々と書いてみました。次は21話の「どうしたって」について書くと思います。その後に最近読み終えた原作版の感想を書く予定です。「とらドラ!」話がもうちょっとだけ続くんじゃ。

アニメ「とらドラ!」…11話についての感想


アニメ「とらドラ!」について感想を書こうとしていたのですが、書こうとしてもまとまらん。さらに言えば、アニメ終了とともに小説版を読みはじめたため、忙しくて日記を更新する気力がないw ということで、印象に残った回などについて、複数回に分けて書いてみることにします。まずは第11話「大橋高校文化祭(前編)」から。


この作品の見方が一気に変わったのがこの11話でした。一人暮らししていた大河と「また一緒に暮らしたい」といって、大河の父親が登場してするところです。過去に「捨てられた」形で一人暮らしをすることになった大河は、父親を断固として許そうとはせず、電話を無視するなどして面会することを拒絶します。一方の竜児は、一度大河の父親に会ったときに、彼が本気で大河と暮らしたいと考えていると感じ、大河を説得しようと試みます。せっかく迎えに来てくれている、家族なんだから父親と一緒に暮らすべきだ、とかなんとか。


私自身、家庭の事情がいろいろとありまして、父親とは折り合いがよくありません(もちろん、大河の家庭のような複雑な事情ではなく、よくある不和があるというだけですが)。それだけに、家族だからというだけの理由で「一緒に暮らすべき」などという竜児の安易な理想論を、ひどくうっとうしく感じました。大河が捨てられたときの事情を知らない人間がそんなことに口出しできるのか、父親だからという理由だけで、彼が本当に大河を愛していると言い切れるのか、と。しかし、揉み合いのなかで、大河を説得するために竜児が発した一言にショックを受けました。


「うちの親父なんかどんなに望んだって帰っちゃこねぇ!」


考えてみれば、竜児は竜児で、父親がいない家庭に育っているわけです。そのことに気がついたとき、竜児の「父親と暮らすのが理想」という考えが、安易な理想論ではなく、自らのコンプレックスや経験からくるものであったことを痛感しました。だからこそ、竜児は必死だったんだと。もちろん、竜児とは逆、大河に近い立場にいる私には、竜児の考え方はまったく理解できません。しかし、竜児の事情を明示されたとき、その考えをうっとうしいとか、そんな言い方はできなくなってしまいました。竜児は大河の気持ちを絶対に理解できないし、大河は竜児の気持ちを絶対に理解できない。けれども、竜児の事情を理解したうえで「父親と暮らせ」といわれたとき、竜児の言葉が絶対に間違っている、などとは言えなくなってしまいました。父親と暮らすことを決断したときの大河の言葉「あんたが言うからそう(=父親と住むことが良いことだと)思うことにする」に、竜児の言葉にはひとつも説得されていないけれども、竜児の言葉を否定できない、という大河の心境が現れていると思います。このシーンで、私の中で「とらドラ!」はただのラブコメではなくなりました。


ちなみに、竜児が母子家庭で、大河が捨てられる形で一人暮らし、というのは、作品の前半できちんと明かされています。しかし、竜児の父親については、竜児の「目つきが悪い」という設定のためのギャグ的な要素という印象がありますし、大河の事情についてもそれほど強調されていません。また、大河の両親の不在について、ラブコメならではの都合の良い設定(竜児と大河が同じ釜の飯を食らうための設定)と捉えていた部分がありました(これは私だけではないんじゃなかろうか)。このように、竜児が母子家庭であることはきちんと説明しながらも、その事情を避けながらラブコメを続けていたことが、11話のこのシーンの驚きと、設定としての無理のなさにつながっているわけです。素晴らしい構成だと思いますねぇ。


…てなわけで、次は14話の「幸せの手乗りタイガー伝説」について、気が向いたときに書きたいと思います〜。

年間日本SF傑作選「虚構機関」

虚構機関―年刊日本SF傑作選 (創元SF文庫)

「2007年は、日本SFのゆりかご〈宇宙塵〉の創刊からちょうど50年。日本で初めて世界SF大会が開かれた記念すべき年でもあり、新たな出発点にふさわしい。ちなみに日本SFの総合的な年次傑作選は、筒井康隆編『日本SFベスト集成』以来33年ぶり。編者の手前ミソながら、SFファンのひとりとして、この企画が実現したことを心から喜びたい。SFは元気です」――大森望(序文より)

「国産SFはアンソロジー自体の数が少ないが、筒井康隆が編んだ『日本SFベスト集成』シリーズを除いて、年間ベストアンソロジーが見当たらないのは不思議であった。SFは新しいアイデア、自由な発想を求めて未来に目を向けているジャンルだから、後ろを振り返る風習が、そもそもないのかも知れない。しかし星新一がデビューしてから50年が過ぎ、日本SFは充分にジャンルとしての財産を積み重ねてきた。そろそろ毎年の秀作をまとめて、「歴史」を残していく時期に来たのではないか」――日下三蔵(解説より)


2007年版SF傑作選。読んだことのある作家さんは小川一水氏、山本弘氏、恩田陸氏くらいのもので、他の方の作品は未読。読書の幅を広げるのによいかも、ということで読んでみました。以下、それぞれの作品について簡単に…。


グラスハートが割れないように(小川一水

結構読む作家さんの作品ですが、正直これは微妙。「グラスハート」に依存しちゃう小枝にも、それを止められない康介の気持ちも正直よくわからん。ただ、グラスハートをめぐる議論(科学的な議論における説明責任云々の話)は、文系人間としてはちょっと新鮮で面白かったかな。


七パーセントのテンムー(山本弘

一つのSFネタを料理してきっちり落ちをつけるという、山本弘らしい短編作品。これは面白かった!「意識とは何か」の答えが明かされるラストがいいですねぇ。もちろんホラ話なんだけれど、もしかしたら本当かも、と思えてしまうんですよ。


羊山羊(田中哲弥

なんだこれw 田中氏は馬鹿な話を書く方であるという噂は聞いていましたが、本当に馬鹿な話でしたwとりあえず、エロいですよということでw


靄の中(北國浩二

しっかりと短編らしい短編。オチはそれなりに読めるけれども、表現の仕方がいいですね。リーが赤ん坊に話しかけるシーンにゾッとしました。。。


パリンプセストあるいは重ね書きされた八つの物語円城塔

??? 全部読みましたが、まったく意味分かりませんでしたw 8つの物語を含んだ短編。円城塔氏は難解な話を書く方だと聞いてはいたんで、読めないだろうなぁとは思っていましたが…。少なくとも、電車での読書には向かないなぁw じっくりと腰をすえて読むことをお薦めします。ただ、砂鯨とか、紐虫とか、意味が分からないなりに面白いと思えるエピソードもちらほらありました。


声に出して読みたい名前(中原昌也)、ダース考、着ぐるみフォビア(岸本佐和子)、忠告(恩田陸)、開封(堀晃)、それは確かです(かんべむさし

ショートショートとかエッセイとか。つまらなくはないけれども、短すぎてなんとも言えないです。岸本氏のエッセイはもうちょっとまとめて読んでみたいかも。


バースデイ・ケーキ(萩尾望都

この作品が唯一の漫画。なんとなく、藤子・F・不二雄氏の短編SF集「ミノタウロスの皿」を思い出しました。奇想天外な短編漫画って面白いですね。


いくさ 公転 星座から見た地球(福永信

繋がっている(?)三つのお話。正直、何を楽しめばよいのかあまりわからなかった…。詩的なものとして捉えればよいのかしら?


うつろなテレポーター (八杉将司)

面白い。山本弘「アイの物語」の一作「ときめきの仮想空間」と同じような、量子コンピュータの社会シミュレータ内の人々のお話。シミュレータ内の人々の自我に対する考え方が微妙に違う、ってところに惹かれますね。物語としてもきっちりまとまっているし、難しい話を平易にしてくれるのとで、とても楽しく読めました。これは是非、八杉氏の他の作品も…って、出版されているのは一作品だけなのかw

http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A2%E8%A6%8B%E3%82%8B%E7%8C%AB%E3%81%AF%E3%80%81%E5%AE%87%E5%AE%99%E3%81%AB%E7%9C%A0%E3%82%8B-%E5%85%AB%E6%9D%89-%E5%B0%86%E5%8F%B8/dp/4198618801


自己相似荘 (平谷美樹

途中で面倒くさくなって投げましたw 頭悪くてすいませんw 説明が長くてなぁ。。。


大使の孤独 (林譲治

地球外生命体「ストリンガー」とのやりとりを、ミステリでお決まりの殺人事件のプロットの中で描いた作品。「空の中」での白鯨とのやりとりとが好きだったんで、これはなかなか面白かった。しかもそれをミステリにぶち込むのがすごい。
地球外生命体「ストリンガー」との接触を描いた作品がほかにもあるようなので、これは是非読んでみたい。


The Indifference Engine伊藤計劃

評判の作家さんで、読んでみると確かに面白い。なんというか、すげぇ〜〜皮肉な話。オープニングとエンディングの文章が同じだけれども、その見え方がまったく異なっております。


全体としては、なかなか楽しめました。もちろん合わなかった作品もありますが、同じ著者の別の作品も読んでみたい、と思えるような作品もありました。そういう意味で、私にとってはありがたい企画本でした。2008年版も出版されると言うことなので、ぜひ読んでみたいと思います。私のようなド文系人間でも楽しめるSF作品もありますので、SFに少し興味のある方は是非。

「とらドラ!」24話と「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」の共通点に関する個人的感想


とにかく、アニメ「とらドラ!」が大好きで、最終回になったら何がしかの感想を書こうと思っています。が、今週もとにかく素晴らしい内容だったことと、あと、少しだけ気がついたことがあったので書かせていただきます。ネタバレしかないので、まだ見ていない方は見ないようにしてください。ちなみに、桜庭一樹氏の「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」を読んでいないかたにとってもネタバレになります。


「ラブコメ」として来るべきところに来た二人に立ちはだかるのが、二人の家族の問題という展開にはしびれるものがあります。あくまでラブコメとしては王道パターンを繰り広げながらも、実はその奥に潜むのはお互いの家族の問題であるというのは、正直タイガー親父が登場するまでまったく気がつきませんでした。で、大河父親騒動に始まり、私が大好きな14話「幸せの手乗りタイガー伝説」でのやっちゃんの「私たち三人家族なんだし〜」に続く展開が、やはり最後になって出てきたかと。ここを無視したエンディングなんて、絶対に迎えられませんよね。


…それはそれとして、何に気づいたかと言いますと、竜児と大河が駆け落ちしようとするシーンで、一度自分の家に帰るところです。これ、桜庭一樹の「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」で、似たシーンがあるんですよ。「砂糖菓子…」で(主役はどちらも女の子ですが)、父親からの虐待をずっと受け続けた海野藻屑に対して、山田なぎさが「逃げようか」と言って、二人が家出を決意するシーンがあるんです。で、家に引き返して家出に必要な荷物をとりに帰るわけですが、最初になぎさの家に帰るときに、二人に以下のようなやり取りがあります。

(なぎさ)「荷物取りにいかなきゃ」
(藻屑)「そうだね、山田なぎさ。だけどなにを持っていくつもり?」
(なぎさ)「さ、財布…?あと、うーん…ドライヤーとか」


それに対して、「とらドラ!」で二人が駆け落ちに際して家に帰るときに、大河が竜児に言う台詞がこれ。

「そうだ、ドライヤー持ってきて」


正直、バッドエンド直行かと思いますわね。いやね、駆け落ちを決めて、そのあとに一度家に帰るというときにすげぇ不吉な予感がしたんですよ。それがなにかと思ったら、「砂糖菓子…」の記憶だったんだと。


ちなみに、「砂糖菓子…」ではなぎさが家に荷物を取りに帰った後、藻屑も荷物を取りに行き、そこで藻屑が父親に殺されてしまいます。だから、「とらドラ!」を見ているときにも、家に帰ったら大河が殺される…わけはないですが、駆け落ちは大人の論理でつぶされるぞ、と思ったわけです。


さらに言えば、竜児と大河が駆け落ちに至る前の展開で、延々と二人の進路について学校の先生に諭されるシーンがあります。竜児は(頭がいいけれど)家庭の事情があるから、大学に進学せずに就職を…って、このあたりも山田なぎさとかなり近い境遇なんですよ。…いや、これは「とらドラ!」と「砂糖菓子…」の展開が似ている、と思って「砂糖菓子…」をちょっと見てみたときに気がついたことですが。


しかし、「砂糖菓子…」ではなぎさと藻屑が「逃げる」という形で家出を考えたのに対して、「とらドラ!」では「駆け落ち」という結論を「逃げ」にしないよう、竜児が考えているようです(大河がヒラヒラの服という子供的な幻想ををバッグに詰め込んでいるにも関わらず!)。それがどのような形になるかは最終回のお楽しみではありますが、「砂糖菓子…」を(おそらくは)踏まえた作品である以上は、「砂糖菓子…」の理論を覆す何かを持ってきてくれると信じています。少なくとも、擬似家族としての竜児、大河、やっちゃんの3人の関係に対して、何がしかの幸福な結論を持ってきてくれるのではないかと…。と、これは私の願望ですな。


以上、つらつらと書いてはいきましたが、この24話の何よりも素晴らしいところは、竜児と大河の今までの関係性を何一つ壊さすことのない告白シーンですよね!上に書いてきた出鱈目な理屈はともかくとして、これについては誰も異論はないのではあるまいか、と思うのです。大河が竜児を川に突き落とすシーンでは爆笑した!私はこの回を100回以上は見れる自信がありますw 最終回手前にしてすげぇいいものを見せてもらいましたよ。私は今回、ほぼ泣きながら視聴していたことを告白いたしますw


追記…


おお、酔っぱらって書いた自分の文章がキモイw 自分の知っている知識の範囲で決め付けるのはよくないですねw より正確に言うと、たけゆゆ先生が「砂糖菓子…」を意識したかどうかはともかく、駆け落ちのシーンにはシンクロするところがあるぞ、ということです。「子供」であることを意識した二人が、大人から「逃げる」という展開ですからね。そこに「ドライヤー」という単語が出てきたので、過剰反応してしまいました。。。


「砂糖菓子…」では、なぎさと藻屑は「大人」から逃げることに失敗しました。しかし、「とらドラ!」では、竜児は逃げるのではなくて立ち向かうことを決意します。「逃げてたら、誕生日が来ても大人になれない」という台詞もありましたね。「砂糖菓子…」とは逆に「立ち向かう」ことを選択した二人が、最後にどのようなやり方を選ぶのか、次回の放送が楽しみでなりません!

「惣角流浪」

惣角流浪 (集英社文庫)

武田惣角。触れるだけで相手を投げ飛ばす、大東流合気柔術の祖である。「進む道は武芸なり」の信念のもと、武士の世が終焉を迎えた維新後もひたすら修行に励む。のちの講道館柔道の創始者嘉納治五郎との対決を機に、惣角の流浪が始まる。西郷隆盛との邂逅、琉球空手の使い手・伊志嶺章憲との命を懸けた闘い。合気の道を極めんとする男の壮烈な青春を描く、明治格闘小説。


先日、大学時代の友人と話していたときに、どうやら今野敏氏が学科の大先輩らしいということを知りました。しかし、今野氏はミステリ作家、というイメージを持っていたため、積極的にミステリを読まない私としては、ちょっと手を出しづらいかなぁとも…。そんなとき、別の本を探していて偶然見つけたのがこの作品。格闘技小説で、しかも武田惣角が主人公!「東天の獅子」で格闘小説の世界にどっぷりとハマった私が、この作品を読まない手はないでしょう!つうことで、ありがたいことに大先輩の本を読む機会に恵まれました。


内容としては、「東天の獅子」での惣角のエピソードのダイジェスト版みたいな感じでした。話の展開にしても、ほとんど「東天の獅子」と同様です。おそらくは元ネタになる資料が同じなのでしょう(手元に「東天の獅子」がないため確認できないのですが…)。ただし、物語における惣角の立場は異なります。「東天の獅子」は講道館の面々を中心として描かれているため、惣角は常に物語の中心部から少し離れた立場でした。物語の節々で突然登場してその圧倒的な強さを見せつけるため、その強さが強烈なインパクトを残します。しかし一方で、物語の主役格である横山や中村などとは手合わせをすることがないため、強い相手との闘いの中で己の内面と闘い、成長するというような、「東天の獅子」では王道となるシーンがありません。つまり「東天の獅子」での惣角は、あくまではじめから完成されたキャラクターがあって、その内面の迷いなどが描かれることはほとんどありませんでした(ちなみに、西郷四郎と闘うというイベントはありますが、そのシーンは作中で描かれていません)。


一方、「惣角流浪」では惣角が物語の中心として描かれており、彼が抱える悩みなどについても描かれています。子供の頃から武士として生きてきた惣角は、戊辰戦争以降の「武士や武道のいらない世界」でどのように生きていくか悩みます。武道の師である父からも「今の時代に武道は必要ない」と否定されるなど、徐々に時代の流れに取り残されてしまいます。しかし、それでも闘うこと、強くなることしか考えられない惣角がどのような生き方を選ぶか…。その答えが、流浪のなかで徐々に見えてくるといった感じの展開ですね。こちらの惣角は闘いに敗れることもあり、「東天の獅子」のときほど完成された強さを持っているわけではありません。しかし、それゆえに「惣角流浪」での惣角のほうが人間味があり、これはこれで楽しく読むことができました。


そして、一番面白いのはやはり、琉球拳法との出会いのシーン…って、「東天の獅子」のときとまったく同じ感想じゃないかw でも、新しい武術として拳法が出てくるところが一番衝撃的なんですよねぇ。。。先の展開をほとんど知っているのにもかかわらず、やっぱり楽しめてしまいました。


全体としてはとても読みやすく、誰でも楽しめる物語に仕上がっていると思います。「東天の獅子」(天の巻)は全4巻でさすがに手を出しにくい、でもちょっと興味がある、という方はこちらから読んでみるのも一つの手かもしれません。こちらは文庫で250ページくらいと、量的にも読みやすいですしね。そして面白ければ、是非「東天の獅子」にも手を出してみることをお薦めいたします。そうすれば、明治の格闘技の世界に魅入られることは間違いありませんよ!


ちなみに、今野氏は明治の格闘小説として、「山嵐」と「義珍の拳」もあるそうなので、機会を見つけて読んでみる予定です。「琉球空手、バカ一代」ってのもあるそうで、こちらも気になるなw